対訳 寺社を歩けば京都がわかる「寺社を歩けば京都がわかる」 より無料公開中!
精選した京都の50余の寺社について、その歴史、建物の特徴、建立の由来などを日英対訳で紹介するガイドブック「寺社を歩けば京都がわかる」より、「龍安寺」「石清水八幡宮」「天龍寺」を無料公開中です。

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武家の信仰を集めた山頂の神社

石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)

石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)八幡市八幡高坊30
075(981)3001
5時30分~18時30分(季節により変動)
境内参拝自由
http://www.iwashimizu.or.jp/
京阪本線八幡市駅下車、男山ケーブル乗り換え男山山上駅より徒歩7分

石清水八幡宮が山頂に鎮座する男山 (おとこやま) (標高142.5m) は木津川 (きづがわ)宇治川 (うじがわ)桂川 (かつらがわ)が合流した淀川 (よどがわ)を見下ろし、西の天王山 (てんのうざん) (注1) と向かいあい、麓に山間の道と河川を通すため、古来、西国との交通や軍事の要衝として重要視されてきた。

天王山

京都の西にある標高270mの山。1582年の山崎の合戦の際、豊臣秀吉がこの山を占有したことが勝敗を分けたため、勝敗の分かれ目を「天王山」という

この男山に社殿が創建されたのは859年 (貞観元) のこと。南都七大寺 (注2) のひとつであった大安寺 (だいあんじ) の僧行教 (ぎょうきょう)宇佐八幡 (うさはちまん)参籠 (さんろう)して、その最後の日の夜、八幡神より「われを京に奉れ」という神託を受け、それを清和 (せいわ)天皇 (在位858~76) に奏上したことにより社殿を建立した、と社伝ではいう。

南都七大寺

平城京周辺にある七つの大寺。東大寺、興福寺、元興寺、大安寺、薬師寺、西大寺、法隆寺の総称。

なお、社名は男山中腹に霊泉「石清水」が湧き、そこにかつて石清水寺があったことによる。この寺は雄徳山護国寺 (ゆうとくさんごこくじ)と改まり、神官寺となって明治の神仏分離まで当社を管理していた。

清浄な境内と社殿

この石清水八幡宮へ参拝するには京阪本線の中書島 (ちゅうしょじま)駅から二つ目の八幡市 (やわたし)駅が最寄駅である。以前は長く急な石段をのぼったが、いまは本殿近くまで八幡市駅から「男山ケーブル」が高低80mの差を数分で結び、足の便はいい。

新年の厄除大祭には楼門に2本の巨大な破魔矢 (はまや)が高々と掲げられ、この神社が弓箭 (ゆみや)の神で、武家の信仰を得た社であることがわかる。源頼信 (みなもとのよりのぶ)頼義 (よりよし)父子が当社に武運長久を祈願したことから源氏一門の尊崇を集め、頼義の長男源義家 (よしいえ)はここで元服したため、八幡太郎 (はちまんたろう) (注3) と名のった。以来、源頼朝 (よりとも)や足利将軍らもたびたび参詣し、社殿が戦禍や火災で焼失するたびに、織田信長や豊臣秀吉が再建した。徳川家康も多くの朱印地を与え、3代将軍家光は1634年 (寛永11) に本殿、外殿、楼門、舞殿など今日みられる豪壮な社殿を造営した。

八幡太郎

1039~1106。前九年の役で功をあげ、後三年の役を平定。東国武士との関係を深め、源氏の勢力拠点を築いた。

延長180mにおよぶ廻廊が石段上の社殿をとり囲み、本殿の裏には数々の末摂社の小さな殿舎が神域にふさわしく清浄な佇まいで建ち並ぶ。また、境内の南西に「エジソン碑」がある。これは1879年 (明治12) にエジソンが炭素白熱電球を発明したさい、石清水八幡宮の竹をフィラメントとして用いたことを記念するものである。

注1: 天王山
京都の西にある標高270mの山。1582年の山崎の合戦の際、豊臣秀吉がこの山を占有したことが勝敗を分けたため、勝敗の分かれ目を「天王山」という

注2: 南都七大寺
平城京周辺にある七つの大寺。東大寺、興福寺、元興寺、大安寺、薬師寺、西大寺、法隆寺の総称。

注3: 八幡太郎
1039~1106。前九年の役で功をあげ、後三年の役を平定。東国武士との関係を深め、源氏の勢力拠点を築いた。

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